Όσοι ασχολούνται σωστά με τη φιλοσοφία ασκούνται στο να πεθαίνουν.

ENo.45.Heurēka / 作成:2026/08/29 06:07 / 更新:2026/08/29 06:08
 
選択。

案内とやらの詳細は思ったよりは早くに明かされた。
とはいえ、その行き先は結局予測の域を越えはしなかった。
天上。地獄。自分の思想の上では存在しないものだが、言ってしまえばそも死後が存在しない。
流れ着いた者達の宗教観が一様とも限らない。
この案内をする者や場所そのものに根ざす死生観もまた同様に。

郷に入っては郷に従え。このロスタイムが存在してしまった以上は、その死生観に付き合ってやるしかない。

天上も地獄も、誰もが思い描き、或いは納得するものではないだろう。
同時に、それを望み、それに満足する者も居ないとは限らない。
故にそれらしきものが用意されるだけ用意されているのだろう。或いはここに居ない誰かが望んだから。
自分はそれらに望みらしい望みも無く、満足らしい満足もまた求めてはいなかった。
生前、いつか誰かが言っていた。自分が死んで行き着いた先に誰も居ないよりは、誰か居た方がいい。
だからいつの時代も人は変わらず、信仰は常に死後に御座す何かを求めるのだと。



さておき、現世に留まる選択肢もあるにはあるらしい。
しかし誰ぞと話した事でもないが、やはり自分にとっては何ら意味を持たない形でしかなかった。
それこそ実に安直に、何も無かったようにただ戻されるよりは相対的には甲斐があるのかもしれないが。
可能ならば自ら始末を付けた方が良い事はあるにはあった。とはいえ未練未満も甚だしい。
自分の視座をもってしても0.1ではなく0と言える可能性を追い求めるなんぞ蛇足に過ぎた。

そもそもの話、罪とされた事そのものは事故とはいえ洒落にならない綻びを増やした事ではあるが。
これ以上余計な事をされては困ると判断された事もまた投獄の理由だろう。
事実仮説推論を立て理屈を立てる事は誰にも止める事などできなかったが、実証の自由は無かった。
その他の自由は他の囚人とは比べ物にならないほどに多くあったが。

ともかく、そのようにある以上。
今を生きる人間が自分に再びの生を与えようとするとはまったくこれっぽっちも思えなかった。
もう数十年早ければ話はまだ少し違ったかもしれないが。
知己もまた自分と同様に老いさらばえ或いは天寿を全うしているだろう。
つまり死人帰りの可能性は限りなく薄かった。

そして亡霊とはあまり存在するべきではないものだ。何せ現世は有限なのだから。
なってしまったものは仕方ないが、無闇に増え続ければ現世は何れ亡霊に埋め尽くされる。
押し合い圧し合い足の踏み場もないまま永劫を無為に過ごすなど御免被るという話だ。

自分の考えの上では、天上も地獄も無い。
神というものもまた、存在しない。
というより、神については存在していて欲しくない。
何故なら存在してしまえば世の在り方について言いたい事が山程あるからだ。

輪廻、即ち生まれ変わりというものにもまた懐疑的ではあるが。
全ての世界と全ての者の根源たる深層を流れる集合的無意識の水底へと意識は還り、
そして再び異なる形で何処ぞへ浮かび上がる可能性くらいはある。
そのくらいであればまったく納得が行かないというわけではなかった。
模像ではなく、我々がイデアそのものを見ていた嘗ての場所。

忘却レテの河。ああ、まったく川とは因果な場所であることだ。

結論としては、結果として恐らく自分という個が失われる事には変わりない。
であるなら、それは死だ。正しく自我の喪失であり、存在の消滅だ。
再び忘却に洗い流されたその後に続くものがあったとして、それは今在る自分とは何ら関係のないものだ。
仮に同値であったとしても、同一である事とイコールではない。一度途切れた連続性は不可逆だ。
存続は文明に欠かせないが、然して生きるという事は有限であるべきだ。

つまるところ、結局人は死ねば無に帰すのだ。
多くの者が嘆くほどの事ではない。何せそれは当たり前の事なのだから。
自分にとってはそういうもんだ。至極当然の摂理に過ぎない。
ヒューマニズムも無ければ世は立ち行かないが、それは他の者がすればいい。



自分が死ねば、自分が観測する世界もまた、終わりを迎える。
一人の人が死ぬという事は、一つの世界が終わるという事だ。

孤高に先往く求道者。
ユウリカ・アンサーフォールは身勝手に生きて死ぬ。

じゃあな。綻びかけのろくでもない世界。